忍者ブログ

tomoomot + blog

Copyright © 2009-2015 Miyashita Tomoyoshi All rights reserved.

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

長い間、間違っていた。のかもしれない。

博物館、美術館などでレプリカと、原物を見比べる機会はあるけど、
たいていほとんど原物のほうが印象に残るのは何だろうと、
最近改めて考えてみた。
 大切に使い込まれ、燃えず、壊れず、時代を生き残ったものの強さが、そこに宿っているのはもちろん感じるけれど、それ以外の力の差は何だろうと。
 
器を自分が作るとき、
前にいい器を作って好評でも、それに倣うことはいつも避けようとしていた。
(同じ形を倣うこと)が機械的でつまらないと感じていたから。
また、(同じ形を倣うこと)は、 機械的でつまらないものだろうと、
鼻っから思い込んでいたからだ。
 では同じではない器を作ろうと、図面は引かず、型も取らずやってきたが、
なんだかそれでも以前よりも器は硬く感じるし、機械的に作ろうとしていないつもりでも
なんだか機械的だと感じることが多くなっていた。

 原物とレプリカを見比べる機会があって、何度か見比べてアッと思った。
 レプリカは原物よりも上手かった。無駄が少なかった。上手くて美しくて、だから心に引っかからなかった。
原物は迷いと、不安と、感動が見えた。無駄や困惑の線がたくさんあった。そのモチーフを選んで図案化した感動や、そのモチーフが生活の風景の中に存在していた空気が感じられた。
それが心に引っかかり深く印象に残った。

 レプリカというのは、そのものと同じ形で同じ技法のものを作るということではあるけど、作り手の意識で、必ずそれよりもいいものを、うまく作ってやろうという作り手の欲が生まれるのが当たり前で。
そして完成品が目の前に既にあるという欠点があるのではないか。

 完成のイメージを持たないとものは作れないと教育されていたけれど、違うのでは?と思い始めた。
 なぜなら、完成形が見えていると、そこに行きつくまでのやり直しや、困惑や、迷いや、失敗など少ない。
見えていないと、時間はかかるけれどそこに行くまでの時間は長く無駄も多い。
 無駄が多いことで、たとえ同じに見える一本の線でも深く人の心を引き付ける魅力になるのではないかと思い始めた。
 自分の考えている「いいもの」を作るためには、完成の形のイメージなんて完璧にできてはいけないのかもしれない。

 
同じものを作らないと意識することは、
同じではないものを作ろうという意識で作るということだから、
形を倣わないように意識してしまうというのは、
かえって形にとらわれているだけなのではないか?
それは表現の選択の幅が決まって狭くしていることなのではないか?
 
だったら意識して同じ形を倣い。
もしくはすべてを忘れることに力を注ぐ。

こうやって、いろいろ難しく考えて、
単純にワクワクするものを伝えたい。
   
 

PR

copyright © 2013 tomoomot All rights reserved.

忍者ブログ [PR]